陸別の行政情報
歴史
町が開かれて90年
明治35年、72歳の関寛斎は斗満原野の開拓を志す。明治34年、寛斎は、4男である又一が7月札幌農学校卒業と同時に、陸別開拓の基本方針を固め、又一を斗満に入植させていたが、この1902年(明治35年)こそ、陸別開拓の第一歩として記念すべき年である。寛斎夫婦は、この年、結婚50年の金婚式を四国徳島で挙げ、老躯をもって、北海道十勝国斗満原野開拓を志し、徳島を旅立ったのである。寛斎は、その頃の心境を「世の中をわたりくらべて今ぞ知る阿波の鳴門は波風ぞなき」と、歌に残している。
寛斎は牛7頭・馬52頭をもって、1ヘクタールの開墾を行った。その地を関農場とし、片山八重蔵を管理人として迎えたのだが、息子・又一が騎馬隊入営のため、関親子は再び離ればなれとなってしまった。
斗満原野の開拓は進まなかった。農産物のそば・馬鈴薯・大根などの収穫は霜害のためほとんど無く、徳島時代に備えていたいくばくかの資本も使い果たしていた。
このような言語を絶する苦難の年がどれほど続いたのだろう。兎やねずみ・熊の被害、酷寒・風雪と戦いながら、陸別の開拓は始められたのである。大正元年10月15日、寛斎は自らの夢を又一に託して、斗満の地に果てた。陸別に道らしい道ができたのも、国有鉄道網走線が開通となったのも、寛斎の入植後の話である。交通の発達は、陸別にも入植戸数の増加をもたらし、開拓はすすめられていった。
寛斎の死は、不幸な兆候の始まりだった。大通りの16戸全焼という大火災に始まり、大凶作。人々の不安と苦悩は、その後の相次ぐ神社や寺院の創設によって知ることができる。しかし、人々はあきらめることなく、農場づくり、子供達の教育、青年会の組織、さらには文芸雑誌“交友”“北潮”の発刊など、酷寒の地にも豊かさを見い出していった。
そして大正8年、足寄外3村戸長役場から分離して陸別村が誕生した。寛翁没後8年のことであった。
【歴史(概略)】
明治34年 関又一斗満に入植。
明治35年 関寛斎、餘作と共に斗満に入植。
明治42年 淕別第一小学校開設(足寄教育所付属)
大正 8年 淕別村、利別村2村を分離淕別外1村戸長役場設置。
大正12年 淕別2級村制実施、淕別村とする。村会議員12名選挙。
昭和23年 足寄郡釧路支庁により十勝支庁に編入。
昭和24年 淕別村(リクンベツ)を陸別(リクベツ)と改称。
昭和26年 斗満地区陸別村に編入(63平方メートル・戸数252・人口1,863人)
昭和28年 陸別町制施行。
昭和37年 陸別高等学校校舎完成
昭和43年 開基50年・町政施行15周年記念事業
昭和48年 陸別小学校新校舎へ移転。
昭和49年 陸別高校閉校。町立国保診療所開設。みどりの園落成。
昭和53年 開基60年・町政施行25周年記念事業
昭和61年 カナダ・ラコーム町と姉妹都市提携調印。
昭和63年 開基70年・町政施行35周年記念事業。小利別に日産自動車テストコー
ス第1期工事着工。
平成 1年 ふるさと銀河線開業。
平成 7年 陸別浄水場完成。
平成10年 公共下水道供用開始。りくべつ宇宙地球科学館オープン。開町80年記
念事業。
平成11年 銀河の森コテージ村オープン
第11回「星空の街・あおぞらの街」全国大会開催。
(高円宮殿下・妃殿下来町)
平成12年 オーロラタウン93りくべつが道の駅に登録。
平成15年 WRC2004年ラリージャパンの開催が決定。
平成16年 保健福祉センター・陸別町国民健康保険関寛斎診療所オープン
平成17年 ごみの有料化スタート
平成18年 「ふるさと銀河線」廃止
平成20年 「ふるさと銀河線りくべつ鉄道」運行開始












